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福岡高等裁判所 平成6年(う)154号 判決 1994年10月05日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人倉岡雄一提出の控訴趣意書に記載されているとおりであるからこれを引用するが、所論は、要するに、被告人に対する任意同行は違法であり、採尿手続も違法であるから、原判決には、証拠能力のない被告人の尿の鑑定書を証拠とした点において、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌し、所論に鑑み順次検討する。

一  任意同行は違法であるとの主張について

所論は、要するに、被告人は、歩行中に警察官六、七名から取り囲まれ、身分も明かさず、理由も告げられずに、車に乗るように言われ、これを拒否するや両腕等を掴まれるなどして無理矢理乗せられそうになったので、約一〇分ないし一五分間抵抗したが、最後は仕方がないと諦めて乗車し、佐伯署まで連れて行かれたものであり、このような違法な任意同行を利用して得た尿についての鑑定書は証拠能力がないというのである。

そこで、検討するに、関係証拠を総合すると、「佐伯警察署の警察官は、平成四年二月一日に被告人が覚せい剤を使用しているとの通報がなされたうえ、多数の覚せい剤関係の前科があることなどから、被告人に対し覚せい剤所持ないし使用の嫌疑を抱き、事情聴取及び尿の提出を求めるために同署まで任意同行を求めようと考えたこと、そこで、A警部補、B巡査部長、C巡査部長、D巡査の四名で、外出した被告人を車両で追尾し、同月二日午後一時三〇分ころ、被告人の進路の前方に停車し、三人で被告人の傍らに赴き、Aが警察手帳を示して『覚せい剤使用の通報があり、話を聞きたいので署まで来てほしい。』と声をかけたが、被告人は、覚せい剤使用を否定し、帰京の途上にあるので二時過ぎの電車に乗らねばならないとの理由でこれを拒否したこと、Aはさらに説得したが、被告人はそのまま歩き出したので、警察官四名で被告人を取り囲む態勢で説得を続け、被告人の腕に手をかけるなどして翻意を促したところ、被告人も止むなく同行に応じて車に乗車したこと」が認められる。

これに対し、被告人は、原審及び当審において、所論に副う供述をしているが、暴力団構成員でもなく、凶器等を所持している可能性もうすい被告人一人に対し、七、八名もの警察官が同行に関与するとは通常考えられないし、警察官が身分も明らかにせずに任意同行を求めたというのは不自然であり、また、任意同行を求められた場所は市街地であり、一〇分以上も抵抗したというのに、人目についた節もないことなどを総合すると被告人の供述は信用できない。

そうすると、警察官らが、同行を拒否して立ち去ろうとした被告人に対し、これを取り囲んで説得を続けたり、その腕に手をかけて引き止めた行為は、当時被告人に覚せい剤の所持ないし使用の疑いがあった(通報の信用性、被告人の覚せい剤前科、職務質問の際の被告人の態度等)こと、被告人は同行を拒んだものの、大声を出したり逃げ出そうとしたりしたことはなく、同行拒否の姿勢はそれ程強いものではなかったこと、しぶしぶながら自分の意思で警察車両に乗車していることなどを考慮すると、警察官らが被告人に対し、任意同行を求めたのは適法な職務行為であるから、任意捜査において許容される限度内の有形力の行使であるとした原判決の判断は正当というべきである。所論は採用できない。

二  採尿手続が違法であるとの主張について

所論は、要するに、被告人を佐伯警察署に同行後の所持品検査や腕の注射痕の見分は被告人の承諾のない違法なものであり、その後、被告人を警察署内に留置したのは令状に基づかない違法な身体拘束であって、本件尿はこうした違法状態を利用して得られたもので証拠とすることができないというのである。

そこで、検討するに、関係証拠を総合すると、本件採尿に至る経緯については、原判決が「弁護人主張に対する判断」一の3ないし5の項において認定しているところは概ね正当なものとして是認することができる。

すなわち、警察官は、被告人が覚せい剤を使用している旨の通報があったほか、任意同行を求めた際の被告人の目の輝きの異様さや、覚せい剤と聞いた後の落ち着きのない態度から、被告人の覚せい剤使用の疑いを強く抱いたこと、午後一時四〇分ころから、佐伯警察署取調室において、BとCが取調べにあたり、被告人の同意を得てスポーツバッグやジャンパーなどの所持品検査と身体検査を実施したところ、覚せい剤や注射器等は発見できなかったが、被告人の右手の内側に注射痕様のものがあり、被告人は合理的な説明ができなかったこと、警察官らは、被告人の覚せい剤使用をますます強く疑ったが、強制採尿のための捜索差押許可状を請求するには資料不足と考え、午後二時一〇分ころから検査のために尿を提出するように求めたが、被告人はこれを拒否し、帰らせて欲しい旨強く要求したこと、午後三時ころ、被告人は東京の保護会へ行くので帰して欲しい旨更に強く要求し、Aは「小便を出したら帰す。」と答えて容易に帰そうとはせず、保護会には連絡してやると言ったが、被告人は保護会に居づらくなることを考えてこれを断ったこと、その後、Aは更に説得を続けたところ、午後四時三〇分ころ、被告人から弁護士を呼ぶように要求がなされ、Aが「佐伯には西山弁護士しかおらず、日曜なので連絡がつくかどうかわからない。」と答えると被告人は姉と連絡を取りたいというので、電話連絡させたところ、被告人は弁護士を呼んでくれるように依頼したこと、右電話の一〇分後くらいに、被告人はAに尿の提出に応じる旨申し出たが、すぐには排尿しようとはせず、弁護士の到着を待つ気配を見せていたこと、午後五時四〇分ころ、被告人は尿意を告げたので、CとBが被告人を便所に案内し、少し離れた位置から被告人がポリ容器に排尿するのを見守ったところ、被告人は五ccど排尿したが、警察官は少量のため検査不能と考えてこれを廃棄したうえ、再度提出するよう求めたこと、午後六時二〇分ころ、被告人は前回と同様の過程で、一五ccほど排尿して提出し、任意提出書等に署名したこと、警察官が被告人の腕を写真撮影した後、午後六時四五分ころ、被告人は帰されたこと、以上の事実を認めることができる。

原判決は、1、被告人は、当日、東京の保護会に戻る予定であったことは認められるが、戻る意思はそれ程強いものであったとは認められないこと、2、警察官らは、被告人の覚せい剤使用を通報した者に対する保護の見地から、強制採尿の手続をとらなかったのだから、令状主義を逸脱する意図があったとはいえないこと、3、警察官らが、「小便を出したら帰す。」と言ったのは、尿提出を求める説得の一表現であると解されるが、それが任意の提出を促す説得の範囲を越えたと認められるときは、たとえ有形力による帰宅の阻止行為等を伴わなかったとしても違法な留め置きというべきであり、遅くとも午後三時ころ以降の留め置きは、任意捜査の範囲を越えた違法な身柄拘束であるが、警察官らは、警察署に留まることを強要する言動はしていないこと、被告人は精神的な余裕はあったこと、午後四時三〇分には任意提出する意思を示したこと、採尿自体には強制力を加えていないこと、緊急性、必要性があったことなどを考慮すると、違法の程度は令状主義の精神を没却するほど重大なものではないとして、被告人の尿の鑑定書の証拠能力を肯定した。

しかしながら、原判決の判断は是認することができない。

すなわち、被告人は、東京の保護会に帰ろうとして大分空港から飛行機に乗るため、佐伯駅に向かって歩いていたところを職務質問されたものであるが、警察官に対し最初から東京に行くので早く帰してくれと言っていたこと、洗面道具や衣類など自己の所持品を大きなバッグに入れて携帯していたこと、姉に東京へ帰る旨言って、餞別の金を貰っていることなどの事実に照らすと被告人が東京に戻ろうという意思のあったことは明らかであり、警察官らもそのこと自体は承知していたものである。また、警察官らは、被告人に対し所持品検査をし、腕の注射痕を見分したのだから、さらに尿を採取しようというのであれば、一定時間説得しても同意を得られない以上、裁判所に対し強制採尿のための令状の発付を請求すべきであるところ、警察官らは、通報者保護の見地から情報源が明らかにできないとして、令状請求を見送ったというのである。しかしながら、強制処分に令状が必要とされるのは、その性質上、個人の身体、財産等に重大な不利益を及ぼし、その者に忍受を強いるものであるから、裁判官においてその妥当性を審査させようというものであって、もっぱら被疑者ら強制処分を受ける者の権利擁護のためのものであるというべきである。したがって、通報者の保護が被疑者の保護に優越するものではないから、令状請求の意思もないのにもっぱら被疑者が尿を排出するのを待つために、警察署内に留め置くことは、正に令状主義の精神を没却するものというべきである。原判決は、午後三時ころからの留め置きを違法と認定しているが、被告人は尿の提出を頑強に拒否し、帰してくれるように要求していたのだから、所持品検査等が終了した後は、令状請求の意思もなく、また、令状請求するに必要資料もない以上、一定時間説得後は帰すべきであり、午後二時一〇分すぎころからは、違法な状態になっていたものというべきである。また、原判決は、被告人が尿を提出する意思を表示したことを違法の程度を軽くする要素としている。しかし、警察官らは、鑑定に足りるような量の尿を提出してもらわないと、帰ってもらっては困るとの認識を持っており、どうしても帰らなければならないというような特別事情がない限り、留め置く意思があったこと、そして、被告人が東京に帰る旨言っていることも特別事情に当たらないから、帰京を延期すべきであると考えていたこと、被告人は、狭い取調べ室において、常に警察官に監視されている状態であったことを考慮すると、被告人が尿を提出しなければ帰れないという強制された状況下にあったものであり、自由な意思決定ができたとも思われないし、被告人が弁護士の到着を待つ気配を示したのも、尿を出したくないという気持の現れというべきである。したがって、被告人が尿を提出すると言ったことは、真摯なものではなく、また便所でも警察官らに見張られている状況であったことを考慮すると、原判決のようにこの点を重視することは相当でない。

また、原判決は、被告人を留め置く緊急性と必要性があったというのであるが、任意同行の段階ではともかく、所持品検査等が済んだ後は、覚せい剤所持の容疑はなくなったうえ、被告人が凶悪犯罪に関与しているような疑いもなかったのであるから、必要性や緊急性がなお継続していたということはできない。

結局、警察官らは、被告人が東京に帰る旅行の途中であることを知りながら、警察署に任意同行を求め、午後一時四〇分に警察署に到着して以来、午後六時二〇分までの間、四時間以上にわたって、被告人が尿意を我慢し、尿提出を頑強に拒否していたにもかかわらず、旅行は延期すべきであるとして、尿提出を求めて警察署に留め置いたものであって、本件のような捜査方法においては、警察官らは、令状を請求する意思もその資料もないのに、ひたすら、被疑者の尿を採取する目的のみで、長時間警察署内に留め置き、被疑者が我慢できずにやむを得ず排出した尿を証拠として採取することが許されるということになってしまう。そうすると、結果的には、令状を得ることなく強制採尿が可能となり、令状主義の精神を没却し、また、違法捜査抑制の見地からも、こうした経過によって得られた尿の鑑定書の証拠能力を認めることは許されないというべきである。

以上検討した結果によれば、本件鑑定書の証拠能力を認めた原判決には、訴訟手続の法令違反があり、かつ、本件鑑定書を除いて被告人の覚せい剤の自己使用を裏付けるに足りる証拠はないから、右訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由がある。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、平成四年一月三〇日ころの午後七時ころ、大分県佐伯市中村北町<番地略>E方において、フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤約0.03グラムを溶解した水溶液約0.25立方センチメートルを自己の右腕部に注射し、もって覚せい剤を使用したものである。」というものであるが、前記のとおり、本件の尿の採取手続には重大な違法があり、したがって、採取された尿の鑑定結果を記載した鑑定書についても証拠とすることが許されない。そうすると、被告人の自白以外に、これを補強する証拠はなく、結局、本件公訴事実は、犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言い渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 德嶺弦良 裁判官 長谷川憲一 裁判長裁判官 金澤英一は、差し支えにつき署名、押印できない。裁判官 德嶺弦良)

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